実は私は、ウィキペディアで漢服復興運動についての情報を検索したらこの映画を見つけた、正直、中国大陸より、台湾のほうが中国の伝統的かつ代表的な文化の粋を守れると思いますが、熱狂的に活動を行うべからざるかな。
この映画を見るつもりだったとき、ずっと「この映画、わしばかりでなく、古風の文化が大好きな秦ちゃんも受け取れるかな」と思う、映画には、若者たちの恋に漢服などの伝統的な題材と相まって、この映画もよく文芸風が見られる、そして、私達二人は、それぞれの好き嫌いがあり、私は台湾が好き、彼女はたいてい漢服に関する活動が好きなのでこれを見るかもしれない。映画ではいくつかの古典文化同好会も競い合ったシーンがある、中国だけでなく、韓国?日本?シンガポールもその試合をさんかした。しかし、一般の人間は漢服などを買うのはそのまま「倒産三姉妹」というふうぞくに陥ったならいざしらず、あらゆる民族は誰しも独特な文化の粋があるわけだから、私たちはこのような活動でそれを守るべきだと思う。
事故で聞こえなくなる雨婕は、妹と共に漢服部に入るとは、少し驚かせる、しかも聞こえないくせに古琴を弾き続けるやる気は実に珍しいと言えるだろう。それは単なる中国の古風の文化の保護?伝承としてのみ弾いたのではなく、 自分が聞きたい雨音のような優しい音声が聞こえるように精いっぱいの努力だろう。また、彼女の存在は、 三角関係 に陥る倫さんにとって、砂漠にあるオアシスと言おうか、嵐の夜の灯台と言おうか、一生懸命新しい歌を創作し、仲買人と相談する毎日の中の大きな慰めだ。これは倫さんの話のように「知っているの?君がいる場所なら、気質のあるきれいな場所だよね」、たしかに五月雨が降っているあの午後は、気質のあるきれいで、ロマンチックだ。
聞こえなくなるので、うまく話すわけにはいかない、その静かさは堪えないだろう、しかし、そのおかげで、他人が感じられない侘び寂びが感じられる、したがって自分と一緒にその気持ちを汲む彼と出会おうとする。彼女は聞きたい雨音が聴かせるように、私も耳を傾けてそれを汲む。なぜかというと、主旨の愛情というものは、誰かを温め、彼女に本音、つまり、聞きたい雨音や琴の音が聞こえるのそのものだから、もう一度同じ駅で君の面影を見えるならいいかなという気持ちだ。(書きかけの感想文だから、気にしないでください)